酒と宗教求めアジア横断

アジアの酒を飲み,接する機会はないながら興味のあった宗教に触れるため,上海からイスタンブールまでの旅に出た.行程中唯一の空路(バンコクーカルカッタ)を境にdrunk(宿酔)とreligion(宗教)の2つの章に分ける.また,ネットカフェから知人たちに送ったホットメールの一部を張りつけた.

※※アップロードしておらず,写真もほとんどなく30000文字弱が続く※※

/☆Go Back☆/

from Tokyo to Bangkok


from Calcutta to Istanbul




drunk  drunk

旅の前半上海からバンコクに渡るまでは酒をよく飲んだ.「酒は憂いの玉箒」を身に沁みて実践していたのだろう.旅先で味わった風土に生きた酒と,その周辺について書いた.


8月25日に成田から出発した.空港内で黒ラベル500ml飲ったのが狼煙だった.上海に向かう機内では,ビールを飲みたいのにそわそわする気持ちからスチュワーデスにカーフィーと言ってしまった.横では悠々とおばさんが青島を飲んでいた.上海に留学している息子に会いに行くと言う.私は旅のテーマは酒じゃないかと思い返し,そして何より旨そうに飲んでいるのが羨ましくて,コーヒーの残り香漂うコップにおばさんのビールを注いでもらった.

百威,虎牌(ビール)などの瓶は,上海のユースホステルで同室者と何本も空けた.中でも気のあった台湾のDowさんの自国を熱く語る姿に,異国へ来たのだなと感じた.よく飲み,笑った.19時前に紅橋空港に着いた後,行き先も分からないバスにタクシーの客引きから逃げるように飛び乗り,重い荷物しょって5キロ彷徨い歩いて宿に着いた後のことだった.酒がしみた.

気持ちよく酒を飲めたせいか,朝起きると不安は吹き飛んでいた.上海滞在の2日間観光名所にはほとんど行っていない.旧市街や大通りから入った路地を歩いて住民を見て回る方が性に合っている.

魯迅と紹興酒を産んだ紹興,魯迅の小説にも描かれた威亭酒店で飲んだ.椀に,瓶からひしゃくですくって入れてくれる.とろみが強く,拡がりのある甘みが旅情に語りかけてきた.

・或亭酒店
(居酒屋 中国紹興市 紹興駅徒歩20分 予算1000円)
紹興酒の本場,上海近郊の紹興の有名店.紹興酒1杯8元,或亭八珍20元,臭豆腐6元,香茹青菜5元,或亭中炒15元.8月27日に訪ねた.当時10000円のトラベラーズチェックが683.68元に換金できたので,1元は14.6円の計算.或亭八珍は店で一番高い食べ物.酢がきいたエビや空豆他,恐らく8種の具材の炒め物.さっぱりした味わい.

紹興と上海を往復することで,広い中国大陸を横断する際に欠かせない汽車に乗るのに慣れた.車内放送がなく,ホームに駅名を示す看板が1カ所くらいしかない中国の汽車は,途中下車が難しい.乗客の気難しそうな中国人たちに「今どこですか」と駅に着くたびに語りかけた.ただほとんどの場合英語は通じず,ありったけの漢字を紙に書いて筆談した.旅をするうえで当然の小さなことでも,克服するごとに喜びを感じていた.
>mail(8月20日4:56)

上海に戻り,天下一と謳われる奇岩の風景とワインを求め,桂林,陽朔に向かった.26時間硬座(東海道線のボックス並みの席)に揺られたが疲労は少なかった.年輩夫婦とは言え,ボックスに相席した中国人がはっきり疲れていたのが心強かった.水物好きにはたまらない,西瓜,メロン,梨,りんご,桃の切り売り(10円くらい)と油がいい具合にきいたインスタント麺を食み,文芸春秋掲載の芥川賞「パークライフ」,人民との筆談,ボーっとする時間を楽しめる性格で乗り切った.

桂林は広生チワン自治区の中心,そこから奇岩に囲まれた陽朔へは漓江下りで至るのが普通だ.ただ日本円で5000円くらいする.往復とも片道130円のバスを使った.陽朔は中国一の欧米人旅行者のたまり場で,食事処は,ブルース・スプリング・スティーンなどが流れるカフェ街と,住人の行く市場の食堂とに分かれる.

前者で酒を飲み,後者で飯を食った.前者で食べるとJAPANESE STYLE FRIED RICEがオムライスとして出てきた.酒は,漓泉ビール(ノーマル,冰,紅,矮泡),桂花酒(シェリー:15度),桂花三花酒(白酒,米が原料:38度),葡萄酒(赤)を飲んだ.後述する大理もそうだが,中国のビールは一銘柄にいろいろ種類があり,その一つ一つに個性がある.日本のビール4社の似たり寄ったりのビールも見習ってほしい.また,この地は葡萄の産地であり,ワインはアルコールの分離感がなく,葡萄が全面に出ていておいしかった.

ここ陽朔は本当に悠久の中国を感じられる素晴らしいところ,バンコク(計12泊)に次ぐ4泊をとった.陽朔公園でぼんやりし,囲碁を嗜み,江に出て本を読む.時間がゆったり過ぎていくのだ.酒だけでなく米の麺「米粉」のうまさにも出会った.
>mail(8月31日3:43)

次の目的地は国酒茅台で有名な貴陽,のはずだった.しかし汽車の無座席(桂林からだと広州や上海からの電車の途中乗車になるので席がとれない.連結や椅子の下にもぐって眠る)で知り合った中国人と途中下車し,士魂の白酒(中国の蒸留酒の総称)求め金城江からバスで5時間行った彼の家に向かった.(mailに詳細)

その道中は種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」.山が深い.谷間には水がせせらぎ,人々が着実に生活を営んでいた.彼は汽車で筆談と英語を織り交ぜ「家は金持ちか,父親の仕事,今の所持金,ビザの有効期限,恋人はいるか,日本の連絡先」など怪しい質問をし,家は公安の上の階,気の抜けない1泊2日だった.しかし,一緒に市場へ買い出しに行き,友達も呼んで飯を食い,テレビの大学対抗討論番組を見,と,もてなしの気持ちを充分に受けながら,人民の田舎生活が垣間見え,結果大変有意義だった.

汽車やバスで移動し,安宿に泊まるような旅をしていると大分目線が下がるから,現地の人に食事や家に呼ばれる機会が多々ある.もちろん用心は必要だし,運がなければ用心だけでは済まされないだろう.途中で会った旅行者は「人の行動には目的があり,日本人に話しかける目的など金かカラダ以外考えにくい」と言っていた.

まして私の場合は酒がからむ.今振り返るとなんでついていったんだろうと思う.それほど家に行き飯を御馳走になり,酒を共にした.そのうちカルカッタの青年には騙されてパシュミナを買わされた.でもいろいろなものが見たくて海外に飛び出てそこに住む人に触れないのは損であることは間違いない.屈託のない笑顔に出会うと「人の生の素晴らしさ」を実感した.だから求めた白酒が3元(43円)の酒でも,そりゃうまかった.
>mail(9月8日5:27)
>mail(9月8日6:24)

白酒の最高峰茅台の郷(仁杯市茅台鎮が産地)貴州省の州都貴陽に着いた.字の如く山に囲まれ,雨が多く,太陽が貴ばれる地だ.シングルモルトで有名なスコットランドのアイラ島,日本の清酒など,酒は地が育むことを想わせる味があった.53度,500mlで4,500円!! 原料は水,高梁,小麦(白酒は大米と玉米が入ると安くなる傾向).いろいろな白酒を飲んだが茅台は別格で,アロマだけで識別できる自信がある.強烈なパーソナリティーがあった.

雲南省の州都昆明に来た.雲南は私の中での中国のイメージだった.長い年月が作った,岩,深い森,立ちこめる霧.奥地に行っていないのでこのイメージはたいして現実にはならなかったが紛れもなく素晴らしい地であり,酒の宝庫であった.昆明では大理ビール(缶の色で3種類,風花雪月,風Pineapple)に出会った.大使館を訪ね自力でビザ(ラオス)を取得した.

雲南省の交通手段はバスだ.昆明→大理→シャングリラ→麗江→昆明→シーサンパンナと廻った.大理は杏花村という店の白酒を浸けた瓶群に圧倒された.青梅,冬虫夏草,他様々な草,木の芽,実.中国人は足があれば何でも食べると言われる.加えて彼らは白酒に身近に生えているものなら何でも浸ける.杏花村と言えば雲南ではなく北部の汾酒の産地として有名だ.この汾酒,茅台と並び称される白酒で,是非赴いて飲みたかったがルートに組み込むことはできなかった.

大理では初めて少数民族ペー族を見た.シャングリラはジェームズ・ヒルトンの「失われた地平線」の舞台と言われているところ,山の隙間を脇に見て深い谷を進んで行くと盆地と草原が現れた.ダライラマ5世が保護した松賛林寺でチベット僧の読経に耳を傾け,草をはむ牛,自然と向き合って生きる人々を見た.南アルプスの北岳を上回り,この地が私の最高到達地点となった.

麗江は石畳が映えていた.そこにナシ族が暮らす.昼は主に中国人の観光客でごったがえすが,朝の静かな営み,日が沈んでから四方街という広場に出て踊る姿は,世界遺産の歴史地区と相まって観光とは一線画した姿を見せてくれた.

郊外に住む世界的漢方士ドクター・フーには肝臓(つまり少し飲みすぎを自覚してきたので)に効くよう調合してもらった.世界遺産に登録された麗江の石畳が張り巡らされた歴史区は,観光客の活動しない朝8時までに限れば住人の営みと相まって素晴らしい景観だった.シーサンパンナでは初めてメコン川を目にし,宿では主人と「医用酒精75」と書かれた瓶に入った白酒のどぶろくを傾けた.
>mail(9月16日4:08)

ラオスへ来た.初の陸路国境越えだった.しかし後述メコンや,印パ間の武装兵による検問のような目に見える明確な線引きはできなかった.それでも両国イミグレーション間の無国籍地帯を乗り合いトラックにぶらさがり,丘を切り開いた砂利道を進んでいく時は「来た!!来た!!」と思ったものだ.

ラオス側国境の街ノンカイは,道一本の両側にへばりついていた.中国のいなかに比べても貧しく物流量の多い国境にしては寂れていた.ラオス北部は山岳地帯で,青森八甲田の猿倉岳が連なったような風景である.たまにスキー場のように伐採して切り開いた山に,段々畑のような田が見受けられたが,農業のできる環境には見えなかった.

ノンカイから首都ビエンチャンに至る道はバスで丸一日要するにも関わらず,まさに一本道で,起きている時間に道が交差していたのを見た記憶がない.バスは訪ねたアジアの国どこでも共通する,人なつっこい人びとの寿司ヅメ.満員にならないと発車してくれない.バスは時として人を運ぶ手段よりものを運ぶ手段としての比重が大きい.屋根中荷物を載せロープで縛り,車内にも食べ物やら段ボールを持ち込む.私は道中真ん中の扉の前に吊されたハンモックで寝た.人は食べ物をくれたり,現地語を教えてくれ,こちらが笑顔で目を合わせれば返してくれる.こうして着いたビエンチャン.

首都? 舗装されていない道も多く,「のんびり暮らす国民性には合っている」と言えばそれまでなのだが,首都として,その未発展ぶりに驚いた.
>mail(9月21日2:40)
>mail(9月23日1:30)

メコン河越しにタイを見ながら,焼き鳥片手にビアラオを,焼き魚肴にラオラーオ(米焼酎)を飲り,メコンというインドシナの恵み,ビエンチャンのタイ属国次代を経てのフランス植民地としてのメコン国境,などを蕩々と思った.

レモングラスのような柑橘系の香り漂うぬるめの混浴サウナ.林の中にあるその木造の建物は,木が黒ずんでいて雰囲気十分だった.肌寄せ合い「ドレミの歌」と「上を向いて歩こう」を一緒になって歌った.そして意気投合した女の子と夕食へ.辛さでびっくりさせてやろうと頼んだパパイアサラダを,いとも簡単に食べるのを見て逆に驚いていた.宿ではゴザ風の壁一面にたかっていたダニとノミにやられた.

免税店で買ったシンハー手にメコンを渡り,久しぶりの汽車でバンコクへ.そしてアンコールワットから帰ったらまた来るからと,足早に世界最大の宗教建築ワットに向かった.

タイ−カンボジア国境のポイペットからアンコールワットのお膝元シェムリアップに至る道は激悪路だった.見渡す限りの草原(地雷が埋まっている)が地平線まで続く中,一筋の道が伸びる「絵」になる風景だが,連日の雨で道は雨期限定の川が横切り,舗装されていない道のくぼみには至るところ水たまりができていた.

車が通るたびに水たまりが掘られるので溝は深い.ガイドが「おりろ」と言うとバスの自重を軽くするために人は降り,膝丈以上ある泥沼を歩いて渡った.これが5度繰り返された.結局乾期の4倍11時間を要し,到着は朝1:00だった.

ワットは広大なのでバイクタクシーを貸し切って回る.バイヨン,ベンメリア(real of ラピュタ),タ・プローム(image of ラピュタ),そしてワットからの日の出,夕日・・・「飲むいいわけを作れる場所」を見つけては1日中アンコールビール(1缶1$)を空けていた.

バイヨン(アンコールトム)は壮大だ.石の城・・うまく表現できないが,何時間見てても飽きない.ただ寝っ転がって見上げていると無数の赤い蟻が皮膚をかんできて激痛が走る.

ワットはさすが一線を超えていた.私はそこにあるものを「今」だけで判断して捉える傾向が強い.過去,過程はあまり顧みないようだ.そこに動く人がいてこそ興味ひかれる.だからよほどの完成度,オーラがないと「静」なる建造物などには欲情しないのだった.そんな私から見てもアンコールワットは掛け値なしに素晴らしいところです.今まで私が一番気に入っていた場所は「出雲大社」だったのですが,ワットの方が上です.何を基準に比較したのかな.感性です.

宿に帰ったら帰ったで近くの屋台でカレーだれにつけて食べる牛鍋を囲み,現地人と米焼酎を飲んだ.おかげで免疫力が下がりラオスから抱えていた皮膚炎が悪化,タイに早く帰ることを決意させバムルンラード病院(アジアNo1の国際病院)で注射を打った.

帰路は(道が限界だったのだろう)バスが運休だったため,トレサップ湖,トレサップ河を船でプノンペンへ入り,バスでシアヌークビルへ移動,海をココン島まで回り込み,深夜バスでバンコクに帰った.船は最高だった.雨が降ろうと,日差しが強かろうとデッキに出ていた.本当にラピュタがあるのではないかと思う雲,水面と太陽の番い,水に悠々と浮かぶ家々と小舟,他の客が苦労する中ターボライターで煙草に火をつけ,持ち込んだビールを飲みながら眺めた. The calm sea says more to the thoughtful soul than the same sea in storm and tumult.
>mail(10月3日8:13)

バンコクは国際観光都市と言われるが,私の観光は死体博物館以外皆無だった.シャム双生児やへその緒がつながったままの赤ちゃんのホルマリン浸けは,強烈な印象を受けた.カンボジアから帰りカルカッタに旅立つまで10泊した.その間は連日,日が沈んでからゴーゴーバーなど夜の蚊帳へ繰り出した.バンコクの空気は旅行者の前向きな好奇心を奪い,後ろばかり向くように仕向けた.ハイネケンばかり空けていた.そして10月12日空港のバーでアムステル,カールスバーグ,ハイネケン,クロスター,バドワイザー,フォスター,ギネス,最後にシンハーと,店の全ビールを制覇して,ふらふらになりながらカルカッタに飛んだ.(了)
>mail(10月10日8:10)



religion  religion

後半,カルカッタからイスタンブールまではヒンドゥー教,ネパール仏教,シーク教,イスラム教(イランではシーア派)の聖地を訪ねた.熱に当てられっぱなしだった.


9月12日,エアインディアでカルカッタに降り立った.機内食にカレーは出なかった.空港の前は牧草地だった.牛(シヴァ神の乗り物のため神聖)が悠々と暮らしていた.空が低く見えるためか世界の厚みが薄く,窮屈に感じられた.中心地に向かうバスに乗った.ぼろい.張りっぱなしの板で作った床,硬いシート,男女で座る場所が分かれていた.扉は開きっぱなしで各自動いていようと構わず乗り降りする.道はでこぼこだった.

街に出て尚驚いた.瓦礫のような建物,セピア色のトーン,輝いているものはドゥルガー(シヴァの奥さん)祭の飾りのライトと,インド人の目と歯の白.信じられない人口密度の群が街を徘徊しているようにしか見えなかった.人口は1000万人を超える.宿にとったマリアホテル,22年間カルカッタに住み,毎日テレサハウスにボランティアに行っている日本人のおばさんが定住していた.

翌朝正午前の首切りの儀式を見にカーリーテンプルに向かった.カーリーは血と破壊を好む神でカルカッタには信仰者が多い.ヒンドゥー教は多神教で都市ごとに人気のある神が異なる.バラナシやデリーはシヴァ,ムンバイは商業神ガネーシャと言う具合だ.

首切りの生贄は美しかった.太鼓が空気を醸す中,泣き叫ぶ小やぎのクビを次から次へとギロチン台にのっけナタを一振り.人々は様々に祈りを捧げる.ギロチンに残った血に指を押しつけこねくりまわすもの.血を額につけるもの.異教徒立ち入り禁止の建物の中は血を薄めた液に花が投じられ,その中を裸足でばしゃばしゃ.低位に属する本能「信仰」,を目の当たりにした.私もすべて見真似で実行した.

ドゥルガー祭のためインド各地から観光客が来ていた.この祭,インド中で開かれているが,カルカッタは月曜を休日にするほどで,インド一の盛り上がりを見せる.

カルカッタから北上してネパール国境のカーカルビッタを通りカトマンズへ.トンバという酒に出会った.コドという豆に湯をそそぐとすぐ発酵して酒になる.アルコール分はすこぶる薄く,赤飯に甘酒をたらしたような味のだった.

ボダナート(寺)でまに車を回した.シャングリラの松賛林寺でも回したまに車.チベット仏教は7世紀にインドから伝わった密教的仏教(日本では真言宗系東密と天台宗系台密)と土着のボン教が結びついたもので,ラマ(チベット語で師匠)との師弟関係により教えが伝えられるため,ラマ教とも言われ4派に分かれるが,ダライ・ラマ15世の認定権問題など争いもある.

身を包む布地は小豆色で,タイやラオスで見た南伝仏教の黄と区別できた.まに車を回すと言う行為は,イスラムの礼拝,キリストのミサと同じく,習慣と帰属性が感じられた.空が高く澄んでいた.旅を通じ,空,太陽の信者になった.

仏陀生誕の地ルンビニはとても静かなところだった.朝は霧がたちこめ幻想的だった.その中をネパール,ラオス,タイ,日本(日本山妙本寺),スリランカ,フランス....世界中の国がこの聖地に開いた寺から経が染み渡ってくる.その中でミャンマーの尼寺にお布施を宿代に泊まった.ただ聖地と呼ぶには信者が少なく,雰囲気だけが先行していた.秩序を伴わない自分本位で信仰している感が拭えない.

仏陀の生誕は諸説あるが紀元前463年説が有力だ.没年は紀元前383年.ここルンビニを中心に小国家を形成していたサーキヤ族(釈迦族)の王と姫マーヤ(摩耶夫人)との間に王子として生まれた.幼名ゴータマ・シッダルタ.成人後,結婚して一子をもうけたが,29歳のときに人生に苦悩して出家.6年間の修行の末インドのブッダガヤにある菩提樹の根元で静座して瞑想に入り悟りを開いた.仏陀は人生を苦として考え,修行を積むことにより解放され,悟りを開くこと,解脱を人生の理想としている.

インドに帰ってきた.チャイ(紅茶)色のガンジス河(ガンガー)流れるヒンドゥーの聖地バラナシ.「渾然」という言葉がぴったりはまるこの地は,銀行の中だろうとガンガーだろうと牛がのけぞり,石畳の道は糞尿のためぬめぬめしていた.どんなに怒っても牛は悠々自適,「怒るなら呆れろ」の気も沸いてくる.

カルカッタで買ったクルター,パジャマー(ゆったりした普段着)をかぶりガンガーに飛び込む.沐浴のため石階段が水辺を潜るガートは少し飛び込むだけで足がつかない.流れも案外速く冷や汗をかいた.毎年何人かの観光客が死んでいるそうで,舟を伴走させて「不浄の地」なる対岸に渡った日本人の噂を聞いた.火葬場では灰の堆積により足元おぼつかないガンガーに膝丈までつかり,次々運ばれてくる死体の目の窪みや鼻の穴に水をくべた.「不浄の地」から太陽が昇る中,信仰の対象そのものであるガンガーに沐浴し,蝋燭を立てた花の舟を浮かべた.武陵桃源の感だった.

ゴールデンテンプルは宿から裸足,手ぶらで向かい,最低限の体裁を整えて入った.首から花飾りをかけられ,自分と両親の今後の栄光を祈ってもらった.金に輝く男根像をさすり額を押し付けた.

ニューデリーは整然とした首都だ.広々とレイアウトされ緑が多く,ロータリー中心の道路網が敷かれていた.ガンジー博物館で見た写真の目が忘れられない.ガンジーはインド国民会議派の指導者で,インド独立の父と呼ばれる.イスラムとヒンドゥー教徒の融和にも腐心した.狂言的右翼ヒンドゥー教徒の凶弾の前に倒れた(そのとき着ていた血によごれた白いシャツも一見の価値).

50を過ぎてからの丸眼鏡をかけ白いクルターを身にまとった姿が有名だが,1907年に撮られた37歳の顔と目は「徳」という表現しか浮かばない.充実した覇気ある時間はロンドン留学時代の20前後よりはるかに若く見せた.

上位カースト出身のガンジーはカースト制温存を望んだ.そのガンジーと激しく対立したのがアンベードガル博士だ.不可触民出身ながら,インド憲法を起草した法律家である.インドではアンベードガルを知らないと仏教が分からないと言われるが,日本での知名度は低い.
>(10月25日11:07)

アムリトサルは,男女問わず頭にカラフルなターバンを巻いて髪の露出を隠すシーク教徒の聖地だ.私もバンダナを頭に巻いて過ごした.街の南西にあるゴールデンテンプル自体が信仰の対象となっている.信者にはテンプル入り口脇に構える体育館ほどのホールでナンとダル(豆カレー)が振舞われるが,ひっきりなしに訪れる信者を賄うため「食べられるだけでありがたい」程度の味だった.縞模様にひかれた布地の上を一列に並び,向き合って食べた.おかわりする人もいるなか私は残してはいけないと必死にほおばった.

テンプルへの入場は裸足で.入り口の溝を流れる水で足を清める.四角い人工池の周りを回廊が走り,池の中心にそびえるテンプルへと廊が続く.信者は水辺に佇み経典を読み,池から水を汲んで回廊を清め,回廊の4隅にある水飲み場で銀コップに随時注がれる水を喉に流す.

信者たちは水辺のタイルに描かれた簡単な迷路を指でなぞってはゴールすると「人生がうまくいく」と真剣に喜ぶ.私も人生とはこんな簡単ではなかろうにと思いながら,容易くゴールする.

人工池の中央に浮かぶ3階建てのテンプルは,そこへ続く廊からしてひっきりなしに訪れる参拝信者によって溢れている.中では皆どっしりと座って教典を,前で座る高尚な祈りべと共に読み続ける.私はただただ乱れぬ声に聞き入るのみだった.パキスタンのラホールに程近く,カブール,ペシャワール,デリーを結ぶ昔からの幹線路としての反映と,ヒンドゥー,イスラムに挟まれた立場を持つこの複雑な地にシーク教は生まれた.

ラホールからパキスタンに入った.問題になっていた印パ間の国境も,肩から機関銃をさげた兵と,国境の上を無機的に有刺鉄線が平地の先,地平線まで伸びている程度で,通り抜けはすんなりとできた.アメリカ人はパキスタンに入国できないそうであるがそこは世界最強のジャパンパスポートのご威光であった.北朝鮮のビザもブルガリアで取れると聞いた.

ペシャワールはアフガニスタン国境に位置する.パキスタン−アフガニスタン間にはトライバルエリアと呼ばれるパターン人の無法地帯(ビンラディンが潜伏しているとも言われる)がある.そのトライバルエリア入り口のマーケットには確かにビンラディン似の人も見かけた.しかし実はアフガン人には日本人と見惑う人も多数いる.この事実は9.11後,メディアが意図的に取り上げなかったとしか思えないほどだ.

マーケット自体は活気があった.探したが銃器などの危険物は見つけられなかった.家電,布団,生鮮品と言った生活用品がブロックごとに区分けされて売られていた.外国人はほとんど来ないようで珍しがられた.マーケットの奥に土を固めて作った彼らの居住区があり,そこに行こうとすると「危ないから」と制せられたため,結局大して奥には入っていない.確かに路地を少し入るとサッカーを興じる子供が見当たらず,人の気配はなかった.

ペシャワールからはトライバルエリアに入れないため,ラホール経由で大回りしてクエッタへ向かった.41時間汽車に揺られた.砂漠突き抜ける中,窓の締まりが悪く車内は砂塵が終始舞っていた.

そんな中決まった時間になると,乗客がモスクが描かれた一畳ほどの絨毯を方位磁石の指すメッカの方向に向けて床に敷き,礼拝を行なっていた.始めて見たイスラムだった.イメージとして抱いていた熱のこもりはなく,静かに信仰が進行した.敬虔な印象だった.彼らは便所の水を持ち込んだガスバーナーでぬるま湯程度に沸かしてリプトン紅茶を入れ,自分が飲む前に必ず薦めてきた.言葉は通じなかったが40時間以上乗っても飽きない空間だった.砂漠を照らし,暮れ,昇る太陽を,ぼけっーと見るのも趣だった.

ザヘダンからイランに入った.イランイスラム革命の指導者ホメイニ師の支肖像がイミグレーションに掲げられていた.このイスラム法学者の英雄は,至る所にその肖像がかけられ,どの街にもイマーム・ホメイニと名付けられた広場があった.イランでタイ,インド,パキスタンと来たカレーロードはさようなら.昼食は牛の脳みそのサンドイッチだった.嗚呼狂牛病や.また石油産出国なのでガソリンに値段がないようなものなのに,タクシーの運ちゃんは訪ねた国で一番ぼったくってくる印象だった.

イスラムの一派シーア派の聖地マシュハドに来た.ムハンマドの従弟で4代カリフのアーリーおよびその家系をイスラム共同体の正しい指導者(イマーム)とする分派である.イランでは最も盛んだが,シーア派は少数派で多数派は約9割を占めるスンニ派だ.こちらは指導者を毎回公選で選んでいる.8代目イマーム・レザーが殉教したマシュハドが聖地としての地位を揺るぎないものにしたのは,シャー・アッバースがイスファハンから1300kmの道のりを徒歩で巡礼してからのこと.

最初に訪ねたモスクがイマーム・レザー霊廟とはなんとも贅沢だった.棺はハラメ・モハッタル広場中心にある黄金のドーム内にある.金,銀に輝く柵で囲われ,参詣者の誰もが棺に少しでも触れようと,柵の隙間に必死に手を伸ばしていた.どうしても手が届かずに,長い棒や子供を抱き上げて,間接的に触れようとしている人までいて,熱気で満ちていた.私は棺を目指すおしくら饅頭の最中シャツのボタンを飛ばされた.

真ん中で男女の仕切りがあり,女性は感極まって泣き叫びながら祈り,男性は誰かが掛け声をかけ,それに「アッラー」と呼応する.下は赤のペルシア絨毯,見上げればドーム状にこんもりと盛りあがった天井一面に鏡のモザイク張りが施され,万華鏡に迷い込んだ別世界の感覚が,人々の思いが充満した飽和空間をさらなる錯覚の世界へといざなってくれた.礼拝の時間には人々のアザーンの響きまでも幻想的に反射させるのだった.

また滞在期間はイスラム太陰暦で1979年に起きた,テヘランでのアメリカ大使館人質事件(カーター政権崩壊の一因)の日と重なった.DOWN WITH USA!! デモ隊は片側2車線の道いっぱいに延々と続き,女性,子供,男性の順でホメイニ師の肖像を誇示し,先頭の選挙カーのような車の上に立つ男が呼びかけると地響きのように返した.イスラムのつかみ所のないパワーが目に見える形で感じられた.

イランの道はよく整備されていて,大型のボルボ製のバスでイスファハンへ移動した.ラマダンが到着日の11月6日から始まった.8日の金曜日(イスラムの休日),礼拝に集まった人で510m×163mのイマーム広場は埋め尽くされた.この広場は世界遺産に登録され,サファビー朝の国王アッバス一世の時代(1587−1629)には世界の半分と称えられた.私は異教徒,異国民なのに,香港から取材に来ていたテレビクルーと親しくなることで,最前列,少し高い位置から見ることができた.拝む人間を拝む気になるほど,厳格に祈る姿があった.

ラマダンのため日中は唾液も,とはいかなかったが何も口にしない.日が沈んでから,チャイハネ(喫茶室)巡りが嗜好の楽しみだった.水煙草くゆらせ,イラン式に角砂糖を先に口に含み,紅茶を流す.水煙草は林檎,檸檬などのフレーバーがあった.

ラマダンに関してあるイラン人(英語の通用度は中国並に低い)の話では「表立っては食べられないが,家で日中食べている人も多く厳格に守っている人は,半分もいない」そうだ.厳格にといっても教え通り唾一滴喉を通さないものなど,本当にいたのだろうか.ただ5行(信仰告白,礼拝,断食,喜捨,巡礼)の義務のうち,巡礼の浸透率はすごい.

国境で向き合うホメイニ師とアタチュルク(1920年祖国解放運動を成功させたトルコ共和国初代大統領)の肖像を眺め,トルコに入った.選挙でイスラム政権に変わった直後と言うのに,昼からロカンタ(食堂)もあいていて,トマトケバブ(炭火で焼いただけのもの)の芳醇な甘みをつまみに,エフェスビールでカトマンズ以来久々にアルコールを喉に流した.国境は,イランとトルコで物価の格差がありすぎるため,トルコに物を運び入れようとする人が群らがり,検問に手間取り,通り抜けに4時間要した.

クルド人が暮らすドゥバヤジットは,旧約聖書でノアの箱舟が大洪水の後漂着するアララット山(5165m)のお膝元.頂には雲と雪を従えていた.白い吐息をたなびかせて丘を1時間登り,イサクパシャサライというモスクに立った.その地理的条件から歴史的にセルジュク,オスマン,ペルシア,グルジア,アルメニア様式が織り交ざっているらしく,淡いベージュの石造りのその空間内は人がいなかったこともあり静けさに押し潰されそうだった.

身をつく寒さのなか旅を振り返った.深い谷を挟んで岩壁に見事に調和し埋め込まれた城塞,アララット山の雄姿,まわりを裾野広い高峰に囲まれた盆地の街を眺めているとノアの方舟で自分しか地上にいないかの錯覚もしばし現実だった.また炭火の焼肉屋で猫にひっかかれ用心のためイスタンブール以降,狂犬病の注射を帰国後も打った.
>mail(11月10日12:31)
>mail(11月10日19:09)

イランのボルボからバスはベンツに代わり,黒海沿岸の街トラブゾンへ.黒海を渡るとそこはロシアのソチ,キリル文字が氾濫し家々は赤煉瓦造り,アジアからヨーロッパへの道は終わりを告げようとしていた.
>mail(11月13日15:12全文掲載)

アジアとヨーロッパの架け橋イスタンブール,今旅の最終目的地に来た.アジア側のターミナルでバスを下り,ボスポラス海峡を船でヨーロッパ側へ.ガラタ橋でサバサンドを食べ,ガラタサライ対トラブゾンのトルコリーグを観戦し,金曜日はトルコにもここまであまり垣間見えなかったイスラムの精神,ブルーモスクで礼拝を行なった.ラマダン中の縁日で機械製のロデオにしがみつき,何度も尻を縫い一本で耐えてきたジーパンが崩壊したのも旅の終わりを告げた.

11月20日成田に帰った.神田まつやで日本酒のぬる燗をちびり,親不孝にも友と一晩四谷で飲んで,21日茅ヶ崎に帰った.
>mail(11月20日14:40)



<結び>
何故,ああも信仰するのか.私は無宗教だ.「神または何らかの超越的絶対者,或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事」,そんな心はない.何一つ持たざる人間にとっては,どんなものであれほんの僅かなものが,輝くボーナスのように見えるものなのか.

だが,我々のほとんどのものが知っているような生活水準となってしまった今日では,宣伝家の類が,「想像するように」と,我々に勧めるような素晴らしい時間など,誰一人として経験している人はいない.宣伝家は自分の中の悪魔だ.理想と現実には,差ではなく次元の違いがある.現実を生む要素は天文学的,あるいは無限だが,理想を産むそれは少ない,時にはただそれ唯一の像である.

もし有限の絡み合いだけで今があるとしたら,完全に自分の拠り所がなくなったら,或いは自分に衝撃をあたえ周囲との交わりを絶つ,もしくは忘れ,「底」に立つことができれば,理想,それは万人にも通用し得るのかもしれない.信仰とは真似が意味をなさない.魂をくべないと虚無感がただ残った.私は少し熟れた.旅を通じ感受したものは活きるはずだ.(了)
>mail(11月26日1:28)








<各地のネットカフェから日本へ送信したhotmailの一部>

件名:行ってきます
8月25日から約4ヶ月ほど世界で遊んできます.25日に空路で上海に渡り,中国,ラオス,タイ.そこからは未定ですが,中東の方に行きたいですね.時間さえ残っていればトルコから東欧に入り酒三昧,バルト三国からロシアのシベリア鉄道で帰るなんてできたら幸せです.旅の目的は大きく2つあります.

1:旨い酒を飲むこと.
風土の酒(日本では日本酒)というのは格別な個性を持っているはずです.その酒を現地人と酌み交わしてきます.酔っ払って意識がとんだり,酔っ払いに絡まれたり,体温があがり,免疫が衰えたところで,蚊にマラリアをうつされたりと,危険は伴うでしょが,酒を飲むときがある面,「人」の一番でる時ですし,何より酒好きなのでこれははずせません.酒レポートもお楽しみに.上海上陸後は紹興酒と魯迅の故郷,紹興に向かいます.

2:豊かな今後を迎えるために.
何かを経験して,それが身になったなと感じるのは数年を経てからのことが,ほとんどです.本を読んだときも,人付き合いも,もろもろそうです.その場は喜怒哀楽のいづれかが自分を席捲し,しばらくすると忘れ,長い時間が経ってに何かしらの形で思い出す経験が,私にとってその時々の自分を形成する大きな柱になってきました.小学校のころ通った囲碁道場のオヤジとの付き合い,活字,悪ふざけ,恋愛,日本中への旅行,そして皆さんとの出会い.就職したらまとまった時間はとれないでしょうから,この時期「人生の充電」をするのです.そして,教養を深め確かめる場にします.
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件名:陽朔から
西広チワン族自治区の陽朔にいます.広州の500キロ北西.沖縄よりも南ですので暑いです.そして天敵の蚊がついに姿を見せました.本当は昨日メールしようと思ったんですが,今メールしている店が途中で停電してしましい,仕切り直しです.

前回のメールから紹興→上海→陽朔ときました.上海に戻ったのは,始発駅でないと長距離切符が取り難いからです.そうです.行ってきました紹興.飲んできました紹興酒.魯迅(紹興出身)の小説にしばしば登場する(らしい←実際に読んでない)或亭酒店で.黒塗りの木造のよき店構え.300ミリリットルくらい入る口の広い椀にひしゃくでとくとくと注いでくれます.隣の中国人に習って両手で椀をもち,ごくり.とろみがあって,ほのかに甘く,旅情と疲れが手伝って格別の味.まずは,第一チェックポイント通過の心持ちです.

またこの店,乞食がきます.前の客の食べのこしを食べ,紹興酒をペットボトルのキャップですくい持ち帰っていました.電車にも肘から先が両手ともない乞食が,肘にバッグの取っ手をくくり,バックの口をこちらに向けて,金をくれとせがんできます.他,たくましく生きる人民を見て,夏ぼけからは脱皮,旅モードのスイッチが入った感じです.ただ,旅モードとかって,こういうことって意識すると,その後よくないことがおきがちなのですがね.書きたいことがたくあんある毎日が送れ幸せでいっぱいです.ただ,ノースリーブのしゃれた服着た女の子が脇毛ボーボーというのには水をさされていますが.

酒量:紹興酒(或亭)約300ml×2,Asahiビール355ml,漓泉ビール640ml,桂花酒(シェリー酒)グラス.350ml缶ビールの値段比較(上海のローソン):バドワイザー5.2元,青島3.8元,力男ビール2.5元,日本のAsahi2.9元.

トランプと囲碁を陽朔公園で人民と嗜むのは心地よい.今まで中国で目にした日本人にも馴染みのあるゲームを紹介します.

1:大富豪(日本では大貧民とも).ルールは日本のものよりもシンプル.ダイヤの3から始めます.8きり,ジョーカーなしで2が最強.特殊ルールは,連番ならダイヤだのクラブだの関係なく3456とか出せることだけ.配りかたが合理的でシャッフルしたら机の真ん中に山を置き,各自が1枚ずつとるというもの.配る面倒さを省いていてよい.あと小額賭けるので大富豪などの地位はなく,一回ごとに平民から仕切りなおす.社会主義的?

2:ダイヤモンドゲーム.木製の穴の空いた版に3色のビーダマを埋めて遊びます.ルールは一緒.

3:将棋.馬(桂馬の動きもする),象,車など少し見ただけでは不明だったので参加せず.少し後悔.

4:囲碁.なんと終局後取った石(あげはま)は相手に返却する(ルール補足:取った石は終局後相手の陣地に埋められ,少なくできる).つまり,殺し合いというより純粋に陣取りゲーム.そして,日本で4,5段で打つ私は,中国の初段という30そこそこの男に白番先で負けました.上のローカルルールを知らなかったとはいえ,負け惜しみではなく絶対に相手の男,日本に来たら6段はある.悔しい.

5:麻雀.牌は黄色がかっていて,日本のものの倍程度あり大きい.大富豪と同じく一回ごとに小額かけているので,スピード重視で,鳴き(ポン,チー)が多い.
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件名:雲南は昆明から1
昨朝昆明に着きました.月曜日にラオス領事館が開きビザを取得し次第.雲南の奥地シャングリラに向かいます.ジェームズ・シェルトンの「失われた地平線」の舞台とされているところです.酒は体調万全の維持に便乗してよく飲んでいます.酒量:

桂林三花酒38度50ml原料は米と水だけの米焼酎,漓泉ビール600ml×3,漓泉紅ビール620mlルビー色.漓泉冰500ml漓泉地ビールの最高級品カフェで約140円.桂林桂花酒100mlシェリー酒.葡萄酒100ml渋みの強い味.ー以上陽朔で

肺朏酒(白酒)22度500ml原料は大米と水,この酒のエピソードは2通目.紹興酒(黄酒集団) 15度500ml 原料は糯,米,湖水,小麦,紹興で購入.ー以上東三(地図には乗っていないでしょうね.広西省)

万力ビール640ml.ー貴陽に向かう汽車で

茅台酒(白酒)53度500mlなんと4500円!!原料,水,高粱,小麦.国酒と銘打つ味.53度と高濃度なのに,安いウイスキーに見られるアルコールが分離して喉を通る感じはなく,体全体に液が染みわたる至上の味.

4500円は9月8日現在の15日間の行程出費30000円弱と比べると相当の出費.曲酒尖庄(四川白酒)52度500ml70円.原料,水,高粱,大米,小麦 玉米,糯米.爆(のさんずい)布ビール640ml.ー以上貴陽

PINEAPPLE BEER 355ml.ファンタっぽい味.ー昆明に向かう電車において

KKビール620ml,風花ビール640ml,大理ビール640ml.ー現在までの昆明.
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件名:昆明から2
汽車の移動中は,たくましいというより野蛮な生活を送っています.痰を車内の通路にはき.食べかす,ちりがみなどは躊躇なく汽車の窓から捨てるようになりました.

昆明には2日前に着いているはずでした.貴陽行きの汽車の無座(後に詳細)に桂林から乗るとの内容は以前書きました.しかし途中で中国人と知り合い,「金城江」で途中下車をし行動を2日ともにしました.彼は私が日本人と知ると「外国人の友達がほしい,家に来ないか」と言ってきました.私が考えている間に「家は金持ちか?父親は何している?金はいくらもっているか?ビザの有効期限はあと何日だ?恋人はいるか?両親は元気か?日本の連絡先は?」など,いかにも怪しい質問をしてきます.質問には適当に答えてました.あと,駅から家までバスで5時間かかると言っていました.絶対私の金目当てと考えるでしょう?

ほとんどの人は連いていかないと思います.しかし私は彼に連いていきまいた.何がそうしたかって?「白酒」です.うまい白酒が飲めると彼が言ったからです.私は士魂の白酒を求めたわけです.

午後6時金城江で降ります.いつからかその男(名前が難しいので男)のほかにもう一人男と同郷となのる男もいました.危険なにおいがします.そして電車を降り,電車が発車したあとに彼が言った言葉に絶句しました.「今日はバスがもうない泊まろう!」.電車ももうないので彼らに従うしかないのですが,怒りと空しさがこみあげます.彼らはいかにも金をもってない身なりで,招待所という外国人は泊まることの許されていない宿に泊まろうとしました.しかし宿側も私が日本人と知ると泊めてくれません.雨が降ってきました.

現在地は広生チワン自治区,貴州省との境なのですが,貴州省の省都貴陽は字のごとく太陽が貴ばれる山奥で,雨は激しく,雲が厚くなったかと思うとすぐに真っ暗になりました.焦りが募ります.その後外国人の泊まれる宿に行きましたが彼らは1泊に400円も出せないと言ってきます.結局私は名前が中国人っぽくないということで黄山晋と名乗り,中国の偽りの住所を使い,口で話せない病気を持った男となることで,1泊60円の招待所に泊まりました.

翌朝バスで本当に5時間も揺られ東三に行きました.山が深いこと.さて男の家がどこにあるかというと,公安(警察)の上の階です.公安脇のビルの階段を上りながら,こいつは日本人の私を警察に差し出して金をもらう気なんだろう.何年牢屋に入るのかな?などと真剣に考えました.結局男の家は公安の上6階にありました.ただ彼の部屋自体牢屋のようなすごい部屋でした.

しかしもの凄く親身にしてくれ,多分奮発したであろう豚肉の塊(市場で蝿が一面たかっている)とトマトの炒めものなどをごちそうしてくれ,夜は男の友達2人もまじえ,やっと目当ての白酒をかたむけたわけです.別れ際,プレゼントの絵,書道,コインと手紙をくれ,バスから手を振っている時は,涙が出ると思ったのさえ何年ぶりでしょうか,感動的でありました.が,結局涙は出ませんでした.やはり枯れているのでしょう.無座について.無座とは字のごとく席がありません.私は車両の連結部で寝ました.とても揺れ,隙間風が身を凍らせ,物売りの車が通行の邪魔になっている私を起こします.脇には糞尿垂れ流し状態のトイレのドアがあいていて,通行人がたんをはき,たばこをすいまくり,あらゆるゴミを捨て,劣悪な環境です.ただ料金は12時間乗って200円程度と格安ではあります.

12時間の乗車時間とは言え数日間の緊張と披露のため,上記の劣悪の環境の中私は寝ました.そして起きたらジーパンの右ポケットがナイフで切り割かれていました.ポケットは空だったので被害はないのですが,夜明けの寒さが輪をかけ悪寒が走りました.多分ナイフで切っている最中に目が覚めたら襲ってきたことでしょう.さて9月11日テロが起きないことを願って!
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件名:昆明に帰ってきました.
恒例の酒量.尚今まで飲んだ酒は,製造元,配量,私が感じた風味など相当量のメモを書き留めています.

KKビール620ml昆明動物園のパンダを見ながら.大寒枸杞酒30度150ml白酒のどぶろく.青島ビール640mlー以上昆明の続き

千杯2008ビール640ml.大理ビール×3.梅酒×2(一杯100ml).王朝千紅葡萄酒ボトル750ml杏花村酒家で姫路獨協大学の教授に中国経済の講義を受けつつ奢ってもらいました.杏花村といえば中国8大酒の一「汾酒」を産する中国北部の有名な村ですが多分関係ないでしょう.また赤坂にも杏花村という名店がありますが,上海蟹の店ですのでこれも関連ないでしょう.名を聞きそびれた酒(白酒と何かのにこごりと白い花と黒蜜を混ぜたもの)200ml.青梅酒12度200ml,雲南は梅酒が多い.大理ビールー以上大理で

青課(の米へん)酒100ml.シャングリラでよく飲まれる白酒大理風Pineapple1度350ml.雲逢●芝酒,追風●湿壮骨酒,虫草鹿茸酒(冬虫草夏草の酒),蔵●秘制●腎酒.●はサイト上だと文字化けします.すべて45度の白酒づけで1グラス100ml.大理ビールー以上シャングリラで

大麦酒35度500ml白酒.木爪泡酒45度100ml,雪逢泡酒45度100ml共に白酒のどぶろく.瀾泡江ビール640ml.金江ビール640ml.十全大朴酒38度100ml白酒のどぶろくー以上麗江

雪花ビールー昆明に戻って今朝

ジョージソロスとクォンタムファンドを立ち上げたジムロジャースという投資家がいます.彼はバイクで世界各地を巡り百聞一見にしかずにより投資をしているのですが,なるほど本筋と感じます.
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件名 : ビエンチャン(ラオス)から
今いるビエンチャンは仏教国です.今朝土曜日の朝のお祈りに行ってきました.皆一様に手を合わせ,たすきのようなものを肩からかけ熱心に祈る.シャングリラ,チベット自治区の五体倒地もそうでしたが(無宗教の)僕には理解しにくい光景です.それでも不思議に僧のとうとうとした読経に耳をやれば心地よい気分に浸れるのです.そして人を団結させる力,金,物品を集める力の凄さ.お祈り後は,入り口に用意された壷に持ちよった高価そうな品を捧げていました.

酒量:版納(パンナ)小旋風ビール330ml.五谷春440ml42度白酒.版納ビール640ml.版納酒400ml38度白酒.医用酒精75度500ml家の主人が家で作った白酒で医用酒精75度と書かれた瓶に入っていた.しかし原料などは答えられずもしかして本当に医療用のものだった気がする.まだくたばってません.ーシーサンパンナで

ビアラオ(ラオス国営ビール)缶5度330ml.ビアラオ瓶×3本.ラオラーオ50度,米焼酎です.ラオスの酒は成分などの情報の表記が瓶にありません.国営会社が作っているからそれでいいのかな?ー以上今のところのビエンチャン.
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件名:ビエンチャンより2
ラオスについて「酒はもちろん,どういうたたずまいの国なのかを知りたいと思う」と質問がありましたのでスケッチします.

<人について>
こっちが笑顔で目を合わせれば大抵笑ってくれるので,距離はそんなに感じません.顔も日本人に似ていて,私はありませんでしたがラオス人に間違えられた日本人旅行者に3人会いました.私は中国で買ったペー族の民族衣装(12元=170円)を一日中着て動いているので,変なやつと思われただけかもしれません.長距離移動バスの中では日本人と分ると次々食べ物をくれ,ラオス語をレッスンしてくれ,バスにがんがんかかるラオス民謡を口ずさみます.昨朝はセパタクローにメコン河沿いの岸で混ぜてもらい楽しみました.ゲームという媒体があったとはいえ打ち解けさせてもらっているのがよく分かりました.

また一昨日混浴の薬草サウナでナンパした女の子と街中央の噴水で待ち合わせして夕食を食べることができたり.ただ案内してもらった店のパパイアサラダ絶品でしたが,私は翌日ビエンチャンを出るつもりだったので再両替を最小限にしようとしていたため持ち合わせが少なく,私より多く払わせてしまいました.その後門限と言って帰ってしまいました.ラオスの女性はこの娘に限らずカメラを向けるとだいたい嫌がります.理由は一様に「自分が可愛くないから」だそうです.

薬草サウナとは,日本のサウナに比べ温度がぬるく,レモングラスのような柑橘類の香りが漂う蒸気で充満した木造の小屋のことです.部屋が狭いため寿司ヅメの室内では,私が「上を向いて歩こう」や「ドレミの歌」を歌えば手拍子してくれ,一緒に歌おうと努力する人もいました.いずれにせよ,皆心地よく肌をぬめらせ,おしくら饅頭状態を楽しむのです.

それと,ラオス人の学生は日本語を勉強している人が多いです.ノートを持って熱心に勉強しています.ただ「たび」なら「だび」のように単語の頭を濁音にする傾向が強かったりと独学で,教育は行き届いていないようです.ビエンチャンの子供は毎日メコンを挟んでタイを見ているのですが,国外に行った事がありません.日本語を学ぶ多くのラオス人の多くは日本に行くことを夢の第一に上げ,第二の夢は海を見ることです.

<地について>
北部は山が険しく開発は全然されていません.青森八甲田の田茂谷地湿原と猿倉岳のような風景の中,わずかな平地に田を切り開いて生活をしています.中国国境からビエンチャンまでラオス北部と首都を結ぶパイプを通ってきたのですが,それでも高床式の家が6軒ほどの小さい集落がバスで20分単位に点在する程度の貧しさです.電気のない村が当然のようにあるようです.

ビエンチャンで夜一番盛り上がるはずの,ディスコもラオス民謡に合わせのんびりと盆踊りをするものですし,一番大きいと言われたディスコに行きましたが日曜日にも関わらず客は20人程でした.そういえば中国雲南の麗江の広場でも踊りましたがこちらも盆踊り.岐阜県郡上八幡の輪が3つといった 感じでした.

酒については特記事項はありません.「安くまずい」以上です.ただ焼き鳥やメコンであがった新鮮な焼き魚が旨く,つまみで飲む感じです.なおビアラオはビンはまずいですが,生ジョッキだと結構いけます.やはり酒の善し悪しは保存状態にありですね.

酒量:ビアラオ瓶650ml×2.LAOH BETラオラーオ45度325ml.生ビアラオジョッキ330ml×2.ラベルにライオンのラオラーオ45度75cl.
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件名:バンコクに帰ってきました.
注射をうちました.極太のハリを肩に垂直にさすから痛いのなんの.アジアで初めて国際病院に認定されたバムルンラード病院でのことです.病名は「皮膚炎」.ラオスのビエンチャンの1ドル宿でダニにうつされ,シェムリアップの屋台で現地人と酒の呑み比べをしている間に免疫が低下し,その屋台の数度の停電と,あたりにいた無数の蚊により状態が悪化しました.私は本当に蚊にさされやすい体質で,1匹の蚊を中心に半径200mの円を人で作ったら,その蚊は真っすぐ私に向かってくると信じているくらいです.だからマラリアなどでない分,よしとするしか今のところありません.ただマラリアって発病するまで潜伏期間がありますので,皆さんがメールを読むころには熱を出しているかもしれません.

つまらない飛行機は使わず,船を多用して急ぎ足でバンコクに帰ってきました.

無論いろいろな人に会っているのですがバイクタクシーの人に通訳してもらって話した,地雷を踏んで片足を失ったおじいさんの話.そして私はある尊敬する女性に「君に一番欠けているのは,弱者を思いやる心」と言われましたが,シェムリアップに向かう道で,雨と悪路の中自転車を前の町からでももう10キロ以上押してきたであろう少女に,バスを降り泥沼を一緒に歩く自分の姿がきれいに投影でき背筋に電気の走る思いでした.足りないものの一片いや五片くらい得た気がします.加えて着実に世界中の魅力的な「きれもの」と知り合い,よいネットワークを構築しつつあります.

尚私はおかまに殊更もてます.シェムリアップのナイトクラブ,それはもう大変でした.バンコクでの暮らしと合わせメールのテーマを酒から東南アジアの夜の街に変えますかね(笑).
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件名:カルカッタからイスタンブールを目指して
まだバンコクです.インドビザを取得するのに1週間かかったためです.バンコクでは日本人旅行者のパキスタンビザ取得が叶わず,インドでもまず取れないでしょうから,カトマンズでの取得を目指しネパールビザも取りました.

ラマダンとイスラム圏(合法に酒が飲めない)に備え,今まで重い思いしてもってきた酒瓶を昨日までにすべて空けました.皮膚炎の経過は完治とまではいきませんが良好です(インドの空気に触れたら激化するかもしれません).また酒を処分したので荷物が半減しました.心機一転アジア横断第2章へ向かいます.

タイビールと言えばシンハーが有名ですが,値段が高いため(大瓶150円,バンコクセブンイレブンで)チャンビールに売り上げを抜かれたそうです.屋台でチャン135円,シンハー160円だったらチャンビールをたのんでしまうのです.またディスコでオヤジどもに交じり,メコンウィスキーをサイダーと水で限りなく薄めたものも飲っています.薄いながら,飲む,踊る,飲む,踊ると繰り返すうちに,とろとろ酔いがまわり,いい気持ちになります.

タイのカレー美味いですよ.ものの2分でできます(安食堂で60円くらい).(例:油ひく→豚肉炒める→インゲン炒める→カレーペースト投入→鳥がらスープのようなものでのばす→塩,パクチーで味の調整→完成).東京信濃町にタイカレー屋「メーヤウ」がありますが,あの店のような汁っぽいカレーも竹の子などはいっていてまた美味.インドのカレーも楽しみにしています.
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件名:デリーから
久しぶりにメール見たら随分縁起でもない返信が多かったですが「くたばっていません」単にネットができる環境が整っていなかっただけです.

この1週間は武陵桃源の感でした.私の考えていた想像と本物とのギャップがです.別世界に来ているとはじめて実感しました.私も異教徒立ち入り禁止のところまで,時には周囲の人に声を合わせて出して門番を突破したり,自分は宗教心をもたないから少なくとも異教徒ではない,などとへ理屈で入り,周りの信仰者の行うが通り真似をしました.しかし肝心の気は入っていないわけなので,結局は一人取り残されている感じで最後はただその姿に圧倒されるばかり.その感じは当然日本でよく覚える,自分だけ冷めているという感じとはまた違うものでした.さ,いよいよイスラム圏へ!
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件名:ドウバヤジットから短信 ついにやってしまった
寒い.霜が降りています.今日イランからトルコに入りました.てっぺんに雲を従えたアララット山(聖書にノアの方舟が大洪水後初めて地上にたどりついた場所として登場する)を右手にドウバジヤッドに着きました.

イランでのサンドイッチとチェロケバブに比べ飯はうまく,格段に選択の幅がありエフェス(トルコの地中海面した都市)ビールを飲み久々にアルコールで喉を潤しました.肴は鶏肉,レバーの焼き肉,焼きトマト(甘みが豊潤で激しくうまい)と焼き唐辛子でした.自分で鉄板に食材をおく焼き肉形式で食べます.トルコってイスラム教政権が選挙勝ったんですよね.全然ラマダンしていません.レストラン昼からやっているし酒も商店のショーウインドウに堂々と飾ってありました.

件名の「やってしまった」ですがカメラを忘れました.国境に向かう乗合タクシーが検問でつかまり同情のトルコ人が煙草などを靴下に大量に隠して入国しようとしたためベルトの隙間まで入念に調べられている間,アララット山をバックにドライバーに自分の写真を撮ってもらっていました.ここまではいいものの,検問所は銃を肩にかけた警察がうようよといて当然撮影禁止場所.撮影後「来い」と建物に連行され日本人はパスポートだけ(ビザもいらない)でノーチェックのはずなのに私も上のトルコ人同様体中調べられました.そしてやっと「OK」がでたとき,気が抜けていたのでしょうその部屋の椅子にカメラを置き忘れました.ま,私らしいといえば私らしいです.もう旅の集中力がきれています.好奇心の摩耗も感じています.誠,取りかけの写真が残念でなりません.
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件名:ドウバヤジットから2
メールで「今お前の持ち物って何なの?そんでそれらをどうやて持ち歩いてるの?でお前の今の服装は?スゲー興味あるんだが.」といただいたので答える形で.

服装:寒いので紫の乾きの早いテーシャツ(ミレー製の山岳用).白と茶のストライプの厚手長袖ボタンシャツ(フォックスファイアー製の山岳用).モスグリーンの雨具の上着(モンベル製の山岳用.バス移動など暑かったら脱ぐ.小さくたためる).イランで2ドルで買ったベージュのジャケット(このジャケットにナイフ,バンダナ,ペン,必要なところだけ切り取ったガイドブック,手袋をいれている.ポケットがたくさんあり便利).赤紫と黒のマフラー.ジーパン.靴下.靴はハッシュパピーというメーカーのヌバック.鞄(ビジネスバッグ,ピーチグリーン色で3桁のダイヤルロック付き).

鞄の中身:ワイヤー式の鍵.薬(正露丸とパブロン).綿棒.爪切り.メモ帳.トランクス.靴下.パジャマズボン(インドのクルターというもの).撮り終えたフィルム10本.垢すりタオル.石鹸(洗濯にも使うし髪も洗う).歯磨き.歯磨き粉.旅の思い出(切符とか絵葉書とかすべて紙のかさばらないもの).針と糸.コンサイス英和和英辞書.ロレンス短編集.ラジオ(時計やアラームとしても使用).ラジオ用の単4電池.マイナスドライバー.サングラス.財布は持たずポケットに分散させて直に札や小銭を入れています.

あまりの身軽さのおかげで,国境のイミグレーションでは「本当に旅行者か?商用目的ではないんだな(ビザはビジネスではなくツーリストなので)」と念を押され鞄の中を入念に調べられる.
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件名:トラブゾンから最終回の前座
昨夜から黒海沿岸のトラブゾンに入りました.久々の魚,何気ない鰯のフライに舌鼓です.丘から街を眺めると,赤い煉瓦,ドブ色の黒海,そして街に溢れるキリル文字とロシア人.アジアからヨーロッパに入ろうとしているのだなと実感します.そして今までの道を振り返り感慨に耽っています.

前回のメールの次の日ドウバヤジットは晴れました.素晴らしいところでした.寒さで空気が澄んでいたことも大きいでしょうが自然が大きかった.イサクパシャサライというその場所柄,歴史的にセルジュク,オスマン,ペルシャ,グルジア,アルメニア様式を時代を経るごとに,織り交ぜられたモスク.淡いベージュの石づくりで誰もいなかったせいもあって静けさに押し潰されそうでした.寥々としていました.深い谷を挟むと,岩壁に見事に調和してさも埋め込まれたかのような城塞が見えます.

左横に目をやるとアララット山(5155メートル,トルコ)が雪を称え,横にその小型版小アララット山(イラン)を従えて,その雄姿を覗かせます.目を90度左に移すと4000メートル峰が,広い裾野を麓の平野部ドバヤジットの街まで拡げています.所々垣間見える青空は鮮やかなのにとても澄んだ水色で,アジアで見てきた空とは確実に違うものでした.ここはノアの方舟の舞台!確かにうなずけます.

ドバヤジットのイサクパシャサライの高台で寒さで頭冴える中6時間ぐらい思い,耽ったこと.その結論(昔からもっていた命題[僕は答えある問いと信じていたので問という表現は使いません]の今回の旅で得た答え)が日本に帰ってからの最終回のメールになるでしょう.

パキスタンあたりから頭の中はぐちゃぐちゃでした.整理などできていませんでした.バンコクまでのメールに比べつまらないこと.それは自分では客観的にしか見ていないと思っていながら,参加だけはしていた「宗教」の熱が僕を狂わしていたからです.旅人とも距離を取り,形だけでしか入れていない宗教心もつ人々と接しているうちに,自分の拠り所がなくなっていたようです.それほどまでに脆くなっていました.ボーっとしていた感じです.そのことは,ある「底」に自分がいることを実感させてくれました.そこにスーゥと入っていました.

最初中国に入ったはすべてが驚きでした.ラオス,タイと国境を越え,同じ東南アジア,陸づたいなのに確かに流れる文化の違いを感受していました.旅に集中していました.一緒に酒を飲み,ゲームをし,と随分気楽に接っすることができていたように思います.

しかしインドに入りヒンドゥーからイスラムへと入っても気持ちの揺れは小さく,それは好奇心の摩耗から,旅が変化ではなく日常になってしまったためと実感するようになりました.だから今「帰ろう」と思ったのです.

この飽きっぽさが,少し首を突っ込んで,ある程度までは大抵できてもそれは単に,コツ,物事の肝をつかむのがうまいだけのことで没頭して頂点までは行けませんでした.それは,高みに行くために必ずある挫折,それも僕の場合は少しの挫折で己の限界を勝手に決め込んでしまい,次へ次へと向かう(三日坊主的な)一瞬の好奇心はすごいから,目を別に移し,また同じことを繰り返す.これが,私の器なら残念でなりません.

あと,よく思いやりがないと言われることにつながるのでしょうが私は自分より苦しんでいる人,自分より劣な人を見ると,そういう人がまわりにいてくれると安心します.逆に自分がある空間でビリだと自覚するとものすごく焦ります.心臓に穴があいたみたいです.

今もたとえドミトリーでトランプをして日本人同士飯を食いに行くという私にとってはさして羨ましくもないながらそれでいて楽しそうな表情をするバックパッカー.欧米とは違う文化や風景に驚きの目を常に見せ,わくわくした心持ちで旅をしている欧米人旅行者.たいして私は,「旅は将来生きる手段」と最後の拠り所として考えてはいても,今実際旅をしていて日々に目的が見出せないでいる自分が,旅を楽しめているとは言えないから,そこから逃げるようにバックパックを捨て,見せかけだけでも土俵から飛び出そうとしました.

私はいつも,少しでも挫折すると,意識しているつもちなので,周りからはそう見えていないと信じていますが,目線を変え,人と違うことをし(よく個性的とか自分があるとか言われるがそれは肯定的には違うと思う)逃げてばかりいました.でも,それで何とかなっていました.前進は乏しいまでも.

だから昔から努力を避ける道を探し,腰からぽっきりいくことを重々自覚していながらも,可能性ゼロのもしかしたら,などに期待をかけて,2年後就職し,社会で自分がどん底もどん底の環境に投げ入れてやると考えていたような気がします.でもこれはただの先延ばしの逃避になりそうだな.自分を中心ではなくがけっプチに追いやっているだけの考え(かりに今のまま実行されたらまさにそうなるでしょう)です.

この旅もアジア横断の最終地点イスタンブールには達しそうです.そして今後の人生の道具になるでしょう.ただどうも達成感(後からついてくるものと思いつつも)が乏しい.だからその道具としての刃はこぼれたものに感じられてしまします.

まったく釈迦の手の平でもがいているような気分でした.ずっと.この手から出るには,人を蹴落としながらももちろん必要ですが先を見た協力ではない,奥に裏の気持ちのない真の助け合いで人とものとに接し,高みに登るしかありません.努力をしないで挫折に打ち勝ち,そして真の武器を手にし手首をかっきるでもしないと,手の平からはでれそうにないです.

自分の次次現れる限界に打ち勝ち,始めはだんだん重くなる挫折に絶えられず,逃げだすでしょう.ただでさえ逃げ癖はついています.そして,自分の底を見ないとこのままのようです.確かに,挫折を少しずつ克服するだけでも今から見れば大きな進歩でしょう.でも,私は理想は高い男です.バンコクからインドに飛んだときは,真剣にあても,土台もないのに悟りをひらくなどと考えていたものです.こんなこと,日常から考えています.考えの飛躍をおさえるのも大変なものでした.

でもこの真の底を見ること,これは不可能に近いほど難しい.ガンジーや仏陀が断食で悟りの境地に達しようとした(達した)のはこの自分の底を見ようとしたのがきっかけの一因でしょう.

今回の旅で自分より弱者をたくさん見ました.日本とは根本的に違う視点で見ました.今,考える今旅の収穫は思いやりを少しもてるようになったことです.すくなくとも,思いやりに対する新しい視点を.日本に帰って実行できるかは自分次第だし,できない気もします.僕が見た弱者それは生まれたときから「そこからどんなにがんばっても」その頑張りが完璧なる立場から見れば欠けたものであっても,少なくとも僕の想像しうる範囲でどんなにもがいてもどうにもならず,今に至っている.そんな弱者です.海外にでたのもはじめてで,その国の構造もほとんど知らず,しかもどうにもならないと書いたのも,日本での僕が見てきた水準に達するという意味で書いている気がしますが,それでも.日本でも身体障害者のかたはそうでしょう.部落とかどれほど残っているとか知識も乏しいですが,日本では考えもしない人たちがいました.

インドで痩せ細り,電車に必死の思いで乗ってきて,物乞いをする子ども.明らかに,栄養不足です.うめいて必死にうったえてきます.もう,数年で餓死しそうな子どもなのです.ほかにもカンボジア,ラオス数え切れない境遇の,本当の弱者を見ました.

私は上に書いたように,それが許される(ほとんどの場合そうでした)場合まわりに自分以上の弱者(これはたいした弱者ではない,まこと弱い弱者を指す)がいなかったら,その道を中途半端に放棄し,別のことをはじめた.それが許された.本当に恵まれていた.ただそれに慣れすぎて,環境に甘えすぎて小さな人間に多分なろうとしている.

今回の旅で自分より弱者をたくさん見ました.日本とは根本的に違う視点で見ました.今,考える今旅の収穫は思いやりを少しもてるようになったことです.すくなくとも,思いやりに対する新しい視点を.日本に帰って実行できるかは自分次第だし,できない気もします.僕が見た弱者それは生まれたときから「そこからどんなにがんばっても」その頑張りが完璧なる立場から見れば欠けたものであっても,少なくとも僕の想像しうる範囲でどんなにもがいてもどうにもならず,今に至っている.そんな弱者です.海外にでたのもはじめてで,その国の構造もほとんど知らず,しかもどうにもならないと書いたのも,日本での僕が見てきた水準に達するという意味で書いている気がしますが,それでも.日本でも身体障害者のかたはそうでしょう.部落とかどれほど残っているとか知識も乏しいですが,日本では考えもしない人たちがいました.

インドで痩せ細り,電車に必死の思いで乗ってきて,物乞いをする子ども.明らかに,栄養不足です.うめいて必死にうったえてきます.もう,数年で餓死しそうな子どもなのです.ほかにもカンボジア,ラオス数え切れない境遇の,本当の弱者を見ました.

私は上に書いたように,それが許される(ほとんどの場合そうでした)場合まわりに自分以上の弱者(これはたいした弱者ではない,まこと弱い弱者を指す)がいなかったら,その道を中途半端に放棄し,別のことをはじめた.それが許された.本当に恵まれていた.ただそれに慣れすぎて,環境に甘えすぎて小さな人間に多分なろうとしている.

でも,それができない人.目の前の苦しみから目を背けたらそれで終わってしまう人を見た.そして,程度はいかほどであれ,苦しんでいる人を見て,その人がそこに至る経緯を入念に考えるようになった.旅の期間時間があったからだろうが.今までも,自分がそうならないように注意する材料にするためとかそういう意味で,無意識にやっていたことなのだろうがそのとき,その経緯の中に,今見えている苦しみに至る要因を見出せない人々がいた.今まで感じたことのない気持ちだった.そして,僕のよくする誇張なのではなく,胸があつくなり,何かがこみあげてきた.この順序で起こることもはっきりわかった.雷の光が見えて,音が聞こえたように.これが,私の得た思いやりだと今は解釈している.狭義かもしれない.でも,私の中では広義だ.今までと比べ少なくとも.今のように,そういう弱者に多く囲まれている間だけで,日本に帰ったら戻るかもしれないが,人を見る目は確かに変わった.

私は「今」は「今」でそれが,与えられたすべてなのだからしょうがないものとずっと捉えてきた.冷めていた.この気持ちも変わるかもしれない.過去があって今があるのは確かに事実なのだから.きっと文面ではよいが内部ではここまではしっくり定着しないのでしょうが.私は「底を」見るという命題が,ゲーデルの不完全性定理のように,自分で自分が人生で得た内なる体系では解決できない(その人にできないし,その同じ体系を得ることのできる人間が存在しえないから)ことである気がする.結局手の平で,また,支離滅裂に一人循環論法を展開してしまった.ただ実は宗教心をもつ人の中で一人ういていてそこそこの底に立っていることに気づきました.そして,あることが見えました.最終回に書きます.
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件名:東京から シルクロードを通り無事帰還
今日の3時過ぎ,無事成田に降り立ちました.イスタンブールからシルクロード上空を通り関西国際空港に立ち寄りの帰還です.次号が最終号になります.

帰国後まっさきにしたかったのは「日本酒を飲むこと」京成線で日暮里に出て,京浜東北で神田へそこから「まつや(牛丼屋ではなく蕎麦屋)」で「とりわさ」「棒鰊」をつまみに「ぬる燗」をちびり最後はからくちのたれを音よくすすり「もりそば」を.その後大学の友と刺身を食べに飲みに行ってきました.東京は街が汚い.雰囲気が汚い.空が汚い.これが最初に感じたことですかね.
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件名:東京から 最終回
帰国して5日が経ちました.すっかり,旅立つ前の日常に定着してきたことを感じます.前にもまして物事が冷めて見えますが,一時的なものでしょう.何か変わったことをした後によくある,慎重に見定める,というやつです.別段見方が変わったとか,そういう実感は少ないです.

(データ)訪ねた国: 中国,ラオス,タイ,カンボジア,インド,ネパール,パキスタン,イラン,トルコ.費用:32万(航空券3回込み).期間:88日

以上で私からのアジア旅行に関するメールは終了です.多くの方に読んでいただけたようで,大変感謝しています.
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